らっちょの呟き

他愛もないこと

見上げてごらん夜の星を

みなさん、空見てますか。

自分はよく見ます。

夜星を見るのもよくやるけど、1番よく見るのは夕方の空。時間が経つに連れて水色と橙色のグラデーションから、橙色と紺のグラデーションに変わっていく西の空がほんとに見てて楽しい。

1番面白いのは西の空はグラデーションのまるでサーティワンのアイスみたいな色なのに、東の空は宇宙を感じる紺色なこと。刻々と変わっていくグラデーションとどんどん紺1色に染まり続ける空は見てて本当に飽きない。この空を撮るためにカメラを買おうと何回考えたことか。まあ高いのでなかなか買えませんけど。

最近撮ったのはこれ。

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グラデーションの中の金星ですね。

自分が撮った写真でベストなのはこれ。

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なんか緑の光のせいで怪しさ倍増って感じだけど、雲の先に見える色と、雲に反射するグラデーションっていう空の要素てんこ盛りな写真です。

 

なんでこんなに空を見るようになったのかというと、そもそも自分が宇宙に興味があったから。医者の前は宇宙工学をやろうとしてたし、なんなら西附に入ったのもそれが理由。紆余曲折を経て今は医学部にいるわけです。

空を見ることは宇宙を見ることと同じなんだなーと小さい頃から思ってました。

一人暮らしを少なくとも宮崎よりも都会な福岡でしていると、下を見てスマホ見てしまいがちだからこそ空を見るようにしてます。空を見ようと見上げると、空はもちろん周りの植物とか空気感に気づけます。季節の変わりに気づけたりします。

最近はクソ暑いのでそんなの無くても夏は感じますけど、この前入道雲を見て「あー、夏なんだなー」と思ってました。

みなさん忙しいだろうけど、ちょっと買い物に行ったりとか登下校の途中でちょっとだけ空を眺めてみてくださいな。

 

p.s.最後に写真を放出します

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好きは人生を豊かにする

このタイミングであげるブログといえば…

そう!我が推しTWICEちゃんたちの日本ライブに行ってきました!!!!

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大学一年から推し始め、コロナが被り思ったようにイベントが開催されていない中、推し続け四年!

ついに念願のライブに行ってきたわけであります。

 

結論から言いましょう。

推しがいる人生って素晴らしい〜!!!

 

目の前にいるんですよ!推しが!

ミナちゃんがこっちに微笑みながら手を振ってるんですよ!

動画とかインライでしか見たことのなかった、存在しているかもわからなかったあの推しが!

自分たちのために雨の中、ダンスを踊り、歌い、司会をして、ファンサをしてくれてるこの空間!

周りにいるのは自分と同じ、下手したら自分よりも長く深い愛をもったファン達が今日で声を失わんばかりに愛を叫んでいる空間!

ライブはアーティストとファンで作り上げるとはよく言うけど、こういうことなのかと初めて理解しました。

 

そんなライブの最中、自分は双眼鏡を持ってきていました。ステージで踊っているのはスクリーンに写るけど、それじゃあいつもの動画と変わらない!肉眼で!本人から反射された光をこの目に入れないと見たことにはならない!と思って見たわけですが、もはや泣いた。さっきも書いたように今まで本人を直接見たことはなく、映像の中の存在で。

彼女たちが努力してここまでのものを作り上げていることを頭で理解はしていたけど、心は理解していなかったみたいで。しかも直接みるまでにTWICEのたくさんの努力を知っていたから、数年分の努力とか色んなものを双眼鏡で覗いた一瞬に心が理解したもんだからもうね。

 

そうして、自分は彼女たちの努力と、その結果集まったファンたちの熱い思いを感じて、これだけの人を熱狂させて喜ばせて希望に満ちさせるのがいかにすごいことなのか、このライブで救われる人が絶対にいると断言できるほどに好きの偉大さを知ったのでした。

 

そして自分もこうなりたいと思ったわけです。アイドルになりたいわけではないぞ(来世はなりたいかも)

誰かに希望を与えられる人間になりたいと思ったということです。たぶん自分は医者になるというレールから外れることはないと思うから、医者として誰かに希望を与えたいなと思ったわけです。患者でも、医療人でも、親戚でも、知り合いでも、何かあったときに、らっちょがいるから大丈夫だと思われるようになりないなって。

多分、TWICEみたいにとんでもない数の人に希望を与えることはできないけれど、その分命を救うっていうとんでもなく大きな希望を少なくてもいいからあげられる医者になりたい。

そんなことをライブで泣きながら思ったのでした。

 

彼女たちが人知れず大きな努力をして、たくさんの人に希望を与えているように、自分もいつか誰かに希望を与えられるよう今すべきことを努力していこうと心に決めました。

 

みんなも好きを大事にしてね。ふとした時の力になるよ。あと、推しは生でみること!!

 

興奮で文がおかしいかもだけどご愛嬌ということで…。

少し悔しいねって話

念願のGWなわけだが、九山というバドの大会で宮崎にきている。もちろん自分も参加したわけで、後輩とペアを組んでダブルスのリーグに出た。

まあ結果は初戦負けです。

早々に試合が終わってあとは他のみんなの応援とか審判の手伝いとかをやってました。家族も見にきていたけど大した活躍もできず…。

元から運動が苦手なことは自覚しているので、それを基準にすれば遥かに頑張っているんだけど、でも良いか悪いかの判断基準はほぼ勝ったか負けたかなわけで…。

まあ練習足りてないじゃんと言われりゃそうなのかもで終わりなんだけど、自分と同じタイミングで始めた人たちが試合に勝って楽しんだり、負けて悔しがったりしているのをみると運動って小さい頃からの積み重ねなんだなってひしひしと感じさせられるわけです。

多分自分は脳みそと筋肉を繋ぐ神経の使い方があんまりわかってないんだろうなって思います。

対して、耳と喉にはうまく神経がつながってくれたんだななんて思ったり。

アイデンティティを持つことはいいことだけど、そのアイデンティティが発揮することで満たされる場合、発揮できない環境にいることはアイデンティティがないに等しい。今までは歌が自分のアイデンティティだったけど、今の自分にはアイデンティティがないな〜としみじみ感じているんです。歌はバドじゃ使わないからね(ファイトー!とかコールぐらい?笑)

試合に負けて悔しいじゃなくて、やればやるほど向いてないんだなと感じて悔しいって話でした。

もちろんやってて楽しいんだけどね!!

ナポレオンの漫画

特別お題「今だから話せること

どうやら今このブログの出してくるお題はこれらしい。なので、ふと思い出した小学生のときの話を書こうと思う。

 

おそらく中高大と自分と関わってきている人達は自分のことを「基本適当で、やらなきゃいけない時にギリギリ合格ラインを狙う人」だと思っているはず。(違うなら教えてください)

だけど小学生まではそうじゃなかった。宿題を出さないやつには家で憤慨するし、先生を困らす問題児は大嫌いだし、律儀に手を挙げて横断歩道を渡るタイプの超が3つくらいつきそうな優等生だった。先生に注意されただけで周りのみんなが「あのTが怒られた」と驚いていたくらいだから相当だったのだと自分でも思う。

そんな自分はもちろんインドアな人間で、クラスのレクリエーションがあっても極力教室で本を読んでいた(やばいやつである)。スポーツはしないしゲームはできない(小5まで禁止)自分にとってそのときの一番楽しいことは読書だった。図書館に入り浸り図書委員会もやった。

 

そんな超超超優等生のTくんはある日、借りたナポレオンの漫画(たぶんみんな見たことある)をなくしたことに気がついたのだ。司書の先生に言うと、ないなら弁償してもらうことになりますと言われてTくんはとんでもなく焦った。焦ったTくんはそれを誰にも言えなかった。親に言ったら怒られると思ったのだろう。

そしてTくんは自分で弁償することにした。本屋さんにあるナポレオンの同じような漫画を買ってみた。けど中を読んでみると全然違う。同じナポレオンを扱っていても出版社が違えば中身も違うのは当たり前なのだけど…。そのナポレオンの漫画はまだ家にある。さっき読んだ。面白かったです。

結局弁償の手立てはなく、Tくんは司書の先生と顔を合わせづらくなり読書量は激減した。

 

で、結局どうなったのかというとある日、覚悟を決めて司書の先生に「本屋さんで探してみたけどありませんでした」と伝えると「Tくんには委員会でもお世話になったし、あれは廃棄したことにするよ」と言われて事なき(?)を得たのであった。全て自分が超が3つくらいつきそうな優等生だったからである。情けは人の為ならずとはこのことなのかもしれない。絶対違うけど。

 

今考えてみると別にそんなことでブチ切れる両親ではないのだが、その時の自分はいい子でいなくてはならないという強迫観念があったのだろう。生きづらそうなやつである。というかそれが生きづらくて中学で親に「俺は真面目をやめる!」と宣言したのである

 

というのが今だから話せること…と言うほど別に重い話ではない。その当時の自分的にはそのくらい重かっただろうけど。要するにN池小から一冊の蔵書が消えたというお話でした。

 

(p.s.)最近ナポリタンの美味しさを理解しました

愛は見えない

最近インスタのリールで流れてきたドラマの一場面で

「愛情ってなに。目に見えないし聞こえない。言葉だけじゃ伝わらないんだよ!」的なことを彼女役の人が怒っていた。

確かに見えないなーなんて思っていたわけだが、実家にちょうど帰ってきた自分は、親からの愛がたくさん見えることに気づいた。

 

自分の部屋に入ると掃除されていて、見たことない布団カバーとシーツが敷いてある。

机の上にはこれまた見たことないパジャマが置いてある。

自分は長期休みにしか実家に帰らない。

こいつらが俺に使われるのは一年で1ヶ月にも満たないくらい。だけど両親は俺が帰ってくるからと用意をしてくれていた。

 

そして帰るたびに美味しいご飯がある。

自分が帰ってくるからとみんなで食べずに残してくれていたふるさと納税のかにとか、親戚のくれた果物を取っててくれたりとか。

お肉の日とお寿司の日が必ずあるのは俺の好みを知ってるから。

考えれば考えるだけ愛は形として見ることができる。あとはそれを愛が形になったものだと気づけるかどうか。

「愛は見えない」とは愛そのものが見えないものということではなく、わたしには愛が見えてないってことなのか…なんて思ったりしたわけ。

愛を見ることのできる目でありたいし、愛を見せてあげられる人間でありたいね。

論理的な人間

今、岡田斗司夫ジブリ解説を見ている。

ただの物語として見ていたものの裏側を面白いなと思って聞いている。

自分が表現したいものが表面に素直に表れず、だけどみんなが面白く感じる表面のストーリーを作ることのできる想像力や表現力はどこで培われるんだろう。

 

人間を論理的な人と感覚的な人に二分するなら、自分は圧倒的に前者だといえる自信がある。絵も下手だし、音楽なんて作れないし。合唱は?と言われそうだけど、考えてみると楽譜に書かれてる音を追えばいい(もちろんそんな単純なものではないけど)ので感覚より論理なのかも。

 

自分をこんな風に捉えているからか、時々出てくる自分のなかの感覚的な部分に気づいてうれしくなる時がある。まるで感情を知ったロボットみたいだなと思う時もある。

年を取るごとに少しずつ自分の中の感覚的な部分を理解していってそれが増えていると思う。音楽は好きだし。これは絶対合唱のおかげ。

あとは人より空を見ることを楽しんでいる。

夕焼けの空のグラデーションとかその日の月とか星とか。これはある人のおかげ。

 

こうなると感情って理解できるものなのかなって思うよね。理解した感情を増やしていきつつ、理解できない湧き出た感情をカテゴライズせずにそのまま抱えているのも大事かなとめんどくさいことを考えています。

 

岡田斗司夫からここまで考えるとは思わなかったね。ありがとう岡田斗司夫

他人もすなるブログといふものを我もしてみんとて、するなり。

”ピコン!”

discordに誰かがスタンプを送って始まる他愛もないおしゃべり。

だいたい始める面子は決まってるけど、珍しい人がやると謎の嬉しさがこみあげてきたりする。

内容は学校のことだったり、バイトのことだったり、将来のことだったり、恋のことだったり...。

 

コロナと共に大学生活を始めることになった自分たちの代にとって、高校同期とつながり続けることは生活における”友人”の枠を空っぽにさせない手段の大事なひとつとなっている、と自分は感じている。

もちろん大学にも友人はいるけど、三年もしくは六年も一緒にいた友人とはまた違うよね。

 

そんな面子でオンライン飲みなんて始めたらどこに話が帰着するかなんてわかったもんじゃない。

今回の話の帰着点(もしかしたら経由地点かもしれないけど…。)はブログを書いてみろというところ。その結果がこのブログ。

紀貫之ももしかしたらこんな風に書き始めてたりして…?

 

たいしたこと書かないけど、頭の中に感傷的な連なりを思い出すことはたくさんあるから、気が向いたら書いてみます。